「自分の選択が間違っている気がする」
と悩んでおられたクライントさんから、
個人セッション(心理セラピー)の後にいただいた感想です。
(ご本人の許可をいただいて掲載しております)
メンタルトラベル
杉田さまこんにちは。○○です。
先日はお忙しい中、スケジュールを組んでセラピーをして頂き、どうもありがとうございました。
お陰さまで心安らかな日々を過ごさせて頂いております。杉田さんとお話したことで、どうしていいか分からなかった「次の仕事を決める」という作業も、若干目指す環境を絞り込めて来たように思います。
翌日、ハロワに行って聞きたいことを聞いてきたので、一つ選択肢が減りました。ただ…ふと経歴を見直して
業種は違えど自分は人のサポートする事ばかりに従事していた事に気づきました。
職を探すならその辺を強みにしていけばいいと思いつつ、「もっと自分を主役にして、ワガママに仕事してみてもいいのかもしれない…」
という思いも芽生えつつあります。
どう転ぶか分かりませんが、やるべき事をやらなければならないのは確かなので、人事尽くして運を天に任せてみようと思います。
セラピーして頂いて思った事は、
「自分はこんなにも強く母親に囚われていたのだな~」
という事でした。
1回目のセラピーで扱った父親より、行動する点で言えば強烈だったのは母親の方だったと思います。
父親はある意味「怖いだけの駄メンズ」(笑)だったのですが、母親は、腹が立つのに嫌いになれない人、見捨てられない人、
可哀想な環境で育った人なのに、更に父親や弟達に苦労させられて、これ以上悲しませたくない、苦労させたくない、とワタシが思っていたからです。
気づいてみれば我が家の親子関係は「ギブ&テイク」でした。
「あなたを育てるかわりにあなたは親のいう事を聞かなければならない」
やりたくなくてもお手伝いを強要される。
やらなければ怒られる。
やって当たり前。
「ありがとう」の一言がない上に、アレが悪い、ココが悪いとケチを付けられる…やってもやらなくても怒られるので、報われる事はないわけで…
親の言う通りやれてれば何も言われないわけで…その結果ワタシに刷り込まれたメッセージは、
「私の選択は間違っている。私以外の選択肢が正しい。だから、私は自分で選んではいけない。親の言う通り正解を選ばなければいけない」
これでは、自分が何を選んでも間違ってる気がして、何をやっても楽しくないし、身動きが取りづらかったろうと思います。
ずっとAを選べばBが気になり、逆もまた然りだったのです。
どっちも正解だし、どっちも間違ってない、
頭では分かってるのに、どっちを選んでも後悔するのですごくしんどかった事が度々ありました。自分の選択が信じられなければ、当然、自分の中に基準が作られない。
何か始める時も最初は自分の選択で物事進め始めて楽しんでいるんですけど、上手く行かない壁や失敗にぶち当たると苦しくなったり、恥ずかしくなったり、逃げ出したくなったりする…
恐らくこのパターンが発動していたのだと思います。
「そういう時もあるさ!時間をかければ上手く行くよ」
と根気良く状況に付き合ってみる、
という健全な考えに至らず、「こんな選択した自分が悪い><この道は間違ってる!母の言う通りにすれば良かった」
と選択した行動を悔い、その道をほっぽり出して、入り口に戻り、違う道を行けばこんな事はないはずだと、苦労せずスムーズに思い通りに進める新しい道を探ろうとする…
自分の中では、
スムーズに進める道=正解
それ以外、不正解と思い込んでいました。
(そんな道あるはずもありません…)だから、けっこう色んなことが中途半端に止まってる感じです…
本当は、その上を目指したいのに、なんやかんや理由をつけて無理やり自分を納得させ、そこで粘る事が出来ずに諦めていました。そうやって自分が好きで始めた事を「良くないこと」「ドウデモイイコト」みたいに簡単に打ち捨てていました。
どんどん自分が信じられないスパイラルに乗ってたんだと思うんです…
それから、ワタシは変に「期待過剰」なところがありました。
「ワタシが●●したんだから、あの人は△△してくれるはず」
勝手に期待して思いどおりにやって貰えないと何か傷ついたり、悲しくなったり、腹が立ったりするのです。
頭では「それ、オカシイだろ…」と思ってはいました。
それも多分、「ギブ&テイク」のパターンだったのだとセラピー中に思い当たりました。
自分が社会をそう言う目で見ているのだから、当然自分もそう社会に思われている…
正に「投影」だな~と実感した瞬間です。常にワタシは他人に自分が期待してるのと同様に、他人はワタシに何か期待している、それを正確に予想して答えなければ罰が与えられる。
出来て当たり前、出来ないと怒られる。
何をやってもまだ足りない、報われてる気がしない。それが私の「他者を見る目」でした。
それが普通だったので、
「ありがとう」や「褒め言葉」が上手に受け取れないわけだと思い当たりました。
「やって当たり前」なのでお礼を言われると内心、
「何言ってんの?バカにしてんの?当たり前じゃん!(怒)」
みたいな感じでした。お陰さまで、今は何をしてもしなくても、全部自分のため、報われている…という手応えを感じています。
他人を絡めた理由がなくても、「自分のため」という正当な理由で行動できるようになりつつあります。そういえば、心理学系の本でよく
「怒りの感情は、その奥に本当の感情が隠れている事があります」
とありましたが、
まさかこれが自分に当てはまる事だとは思っていませんでした。母親には怒りをぶつけていたので、未完了の感情があるなんて思っていなかったのです。
抑圧されていた感情が、自分を理解してもらえない事へのとてつもない悲しみだったのが自分でも意外でした。1回目のセラピーからの間にワークショップを体験したせいか、今回受けたセラピーはより一層、体の反応が自分でもよく分かりました(^^
嫌な事は言葉にして発するだけでも、体が嫌がって拒絶しているのがとてもよく分かって…逆に好ましい事にはとても「その通りだよ!」と言わんばかりに外に向って広がっていくような感覚がありました。
改めてセラピーすごい!!と感激した次第です(*´∇`*)
よく考えると、健全な家庭であれば親が子に
「育てるかわりに何か返せ」
と見返りを求める事はないのかもしれないな~と…「ギブ&テイク」は「ギブ&ギブ」があった結果として自然に成り立つものではないかな~とふと思いました。
植物を育てるように、必要な愛情を注ぐ「ギブ&ギブ」を続けた結果、子供は作物が実るように持ってる素質を開花させ、結果、親はそれを見て喜ぶのが望ましい親子関係なんじゃないかな~と…
基本、社会はそうやって成り立っているのではないか?と。
それが信じられたらステキだな~と。何か見返りを求めるために行動するのではなく、ただひたすら愛を注ぐ。
それは期待を手放した瞬間、本当に理解する事が出来るんじゃないか、そして今、それが自分にも腑に落ちてきてるんじゃないか
…そんな気がします。またお世話になることもあると思いますが、その時はどうぞよろしくお願い致します。
どうもありがとうございました<(_ _)>
セラピーの中で、「正解」という言葉を何度も使う方がいらっしゃいます。
ご本人は何気なく言っているだけかもしれませんが、そういう方の話を掘り下げていくと、たいていその「正解」というのは、
「誰かにとっての正解」だったりします。
(その多くは、「親から見た正解」)
そういう人は、大人になっても、その誰かがOKと言ってくれる「正解」を無意識に探し求めているんですね。
あなたの言う、「正解」というのは、本当に「自分にとっての正解」でしょうか?
それとも「誰かにとっての正解」なのでしょうか?