カブトムシを
採ったことがあるあなたも
採ったことがないあなたも
こんにちは。
Cafe WINNER Partyに出てくださった方に「あの時話した内容は、今回の記事のことですよ!」と言いた杉田です。
1週間お疲れさまでした!
いやいや、年末ですねぇ。
みなさん、今年どんな1年でしたか?
私はいつになくたくさんの人に会った1年でした。
人からたくさんのモノをいただいた気がして、ホント感謝の気持ちがいっぱいですよ。今年は。いやぁ、楽しい1年だったなぁ。
さ、では、さっそく今年最後の記事にいきたいと思うんですけど、ご存知の通り、このブログって「何がしたいかわからない」という言葉で検索される方が多いので、
「やりたいことをやる/やらない」みたいな話は、今までも何度も記事にしてきたと思うんですね。
でも今回はちょっと角度を変えて、
「やりたいことをやってみたけど、うまくいかなかった」
ということについてお話してみたいと思います。
えーと、何かをすれば、うまくいくことも、うまくいかないこともあるわけですから、
今まで会社員をしていた人が、本当は他に「やりたいこと」があって、「それを仕事にしよう」と会社を辞めて、期待を胸に独立して仕事をしたけど、お客さんが集まらなかったり、自分が途中で興味を失ったりして、「やりたいこと」をやるのをやめた、
なんてこともありうるわけですよね。
で、そういう時って、すごくガッカリすると思うんですよ。
途中でやめちゃった自分を責めたり、まわりからも「ほら、やっぱり」的なことも言われたり、実際そこから立て直すのは大変だったりもするでしょうし。
でも私、そんなふうにやりたいことをやって、うまくいかなかった方を拝見すると、
「いやぁ、ちゃんと人生、生きてるなぁ」
って思ってしまうんですよ。
エッ「うまくいかなくてガッカリしているのに、そんなのん気なこと言うな!」ですって?
そ、そうですよね。
でも、思うのは、
「カブトムシを採らない人生でいいですか?」
ってことなんです。
あ、これどういうことかというと、私、小学生の頃、カブトムシとかクワガタが大スキで、夏になると、ワクワクしながら探しに行ってたんですよ。
でももし仮にですね、その小学生の頃の私が、まわりの大人から、
「どうせカブトムシなんてすぐに興味がなくなるよ。そんなの夢中になるのやめなさい!」
なんて言われてたとしたら、私「そんなことないもん!」って言い張ったと思うんです。
たとえその大人からどんなに言葉を尽くして「興味がなくなる」と説明されても、
たとえ「世界カブトムシ興味なくなる年齢データ」を見せられても(笑)、
その時の自分は、自分がカブトムシに興味なくなるとはとうてい思えなかったと思うんですよ。
で、この話から何をお伝えしたいかというと、私はカブトムシに興味を持ったことで、「それが何かになったわけではない」んですよね。
私が昆虫の研究者になったわけでもなく、今、趣味として、昆虫を飼うわけでもなく、むしろ大人の言う通り、小学校の高学年くらいから急速にカブトムシに興味を失ってましたし、今の私は、もうカブトムシとか触りたくないですし。(笑)
でも「じゃあ、カブトムシを採らない人生のほうが良かったか?」って聞かれれば、全然そうは思わないんですよね。
その理由をカンタンに言ってしまえば、「カブトムシを採ったことが純粋に楽しかったから」なんですけど、私はそれ以上に、
何かに対して「ちゃんと興味を持って、ちゃんと興味を失った」というプロセスをやりきったことが良かった
って思ってるんです。「もうカブトムシは十分」と思えてそこにぜんぜん未練はないというか。
だってもしまわりの大人から「どうせカブトムシなんて、すぐに興味がなくなるよ。そんなの夢中になるのやめなさい」って言われて、自分はすごい興味があるのにわかったフリしてカブトムシを採るのをやめていたら、
私はきっと後から悔やんだり、不満をまわりの大人のせいにして未練タラタラだっと思うんですよ。
あ、そうだ、DJあおいさんて方も、こんなこと言ってましたっけ。
恋愛なんて最後の恋以外は全て失敗みたいなもんです
最後の恋以外の恋は失敗するから、恋しないほうが良かったですかね?
たぶんそうじゃないと思うんですよ。(ニヤリ)
あ、で、ここまでの話から何をお伝えしたいのかというと、やりたいことをやってうまくいかなくて、まわりからも「ほら、やっぱり」的なことも言われたりしても、
私はちゃんと「やりたい」気持ちを大切にしたいし、
興味を失ったら失ったらで、ちゃんと「やりたくない」って気持ちも大切にしたい、
って思ってるんです。
あ、神話学者 ジョゼフ・キャンベルも、こんなことを言ってましたっけ。
人間は皆、人生に「意味」を求めるといわれますが、本当に人間が求めるのはそういうことではないでしょう。
私たちが人生に求めるのは、「生きている実感」だと思います。
日常の行動や体験が、自分の最も深い所にあるものと共鳴して、生きていることの無上の喜びを感じることです。
これが一番重要なことなんです。
重要なのは、人生という旅そのものなのです。
目的地がどこかかではありません。
旅をしていると、目的地がどんどん遠のいていくように思える。
やがて人は気付く、真の目的は、「旅そのもの」だったんだと。
これに気付く瞬間は、この上なく幸福な瞬間です。
「あれをすべきか?これをすべきか?」
その問いに、私はこう答えます。
「自分の無上の喜び、至福を追求しなさい」とね。
人には自分が中心にいるか知る、内なる力があります。
自分が正しい道の上にいるか、それとも外れているのかを知る力がね。
自分の人生に喜びがあるとか、幸せであるかって、結局「自分の最も深い所にあるもの」が決めるわけですから、その「自分の最も深い所にあるもの」を満足させないと、「なんのために生きているのかな?」って思うんですよね。
あ、私、今でも「これやってみたいな♡」と思った講座に行ってみて、「違うな」って自分が確信したら、講座の途中でも平然と投げ出して、行かなくなっちゃうんですよ。(笑)料金の高い講座だったとしても。
そういうのって、はたから見れば「うまくいってない」とか、「失敗」ってことになるんでしょうね。
きっと昔の私だったら、そんな途中で投げ出した自分を責めたり、「もったいないから、とりあえず講座行っておこう」とか思ってたと思うし。
でも今の私は「違うなと自分が確信したうえで」投げ出したなら、そういう自分を責めないですし、後悔もないんです。
だってそういうのって、後からいくらでも言えるけど、実際は「やってみないとわからない」わけじゃないですか。
なので、講座の途中で投げ出したとしても、ちゃんと「自分の最も深い所にあるもの」に従ったおかげで、「もうじゅうぶん」って思えて悔いがないんですよね。カブトムシのように。
あ、そうそう、同じくジョゼフ・キャンベルの言葉なんですけど、最近、私、ようやく意味がつかめてきた言葉があるので、これもついでにご紹介したくなりました。
永遠とは、いつまでも続く何かを言うのではありません。永遠は、今ここに、自分の人生の中にあるんです。
私は今までに両親を亡くしましたし、たくさんの友人たちも亡くしました。でも決して彼らを失ったのではないと、とても強く実感するようになりました。
私が両親や友人たちと共に過ごした瞬間は、永遠に続くものなのです。決して消えることではありません。
あの瞬間は今も私と共にあります。これは永遠とは何かを表す1つの例だと思います。
あ、私、この中に出てくる「永遠」の意味って、わかるような、わからないような気がしてたんですけど、
最近、私なりに思ったのは、今回お話したように、
カブトムシを探した日々とか、
映画を貪るように観ていた時期とか、
過去の恋愛とか、
永住権を取ろうと、オーストラリアに渡った時とか、
「やりたい!」と思ってやったことが、何かにつながらなかったり、うまくいかなかったり、途中でイヤになって投げ出したとしても、
「自分の最も深い所にあるもの」に従った瞬間というのは今も私と共にある
って思えるんです。
それが私にとっての「永遠」で、「永遠は、今ここに、自分の人生の中にある」ってことなのかなぁって。
いやぁ、我ながらイイ気づきだなぁ。これは。
さ、それでは最後にあなたに質問です。
あなたは、カブトムシを採らない人生でいいですか?
それでは今年のブログはココまでにします。
今年もブログをお読みいただきまして、本当にありがとうございました!
また来年お会いしましょう!