自分の「才能」を発揮する方法を
わかっているあなたも
わかっていないあなたも
こんにちは。
「金王神社」の初詣客が「カリブの海賊」ばりに並んでいたことに驚き杉田です。
1週間お疲れさまでした!
えーと、みなさん、昨年末にアップした、
っていう記事、覚えていますか?
あ、最近の記事だから覚えておられる方、多いですね。
で、その記事の中で、私、
「やりたいことをやったけど、うまくいかなかった時、どう捉えるか?」
ってことについてお話したと思うんですけど、
私の友人に、成功している方(Aさん)がいて、まさにその、
「やりたいことをやって、うまくいかなかったら、どうするんですか?」
っていう質問を、人からよく受けるんですって。
で、Aさん、その質問に対して、
「それは才能がないってことです」
って答えるんだそうですよ。
これ、言われたほうは、どこか気づかないようにしてきたことをスバリ言われて、「アチャー!」ってなると思うんですけど、
私も、Aさんと同じ意見で、
「運」も含めて才能だと思うので、「やりたいことをやって、うまくいかない」って、結果だけ見れば、「才能がない」ってことになると思うんですね。
あ、でもですね、Aさんも私も思っていることは、
「やりたいことをやって、うまくいかない」、つまり、「才能がない」ってことが、ダメとか、悪いとか、そういうことではないと思ってるんです。
その理由については、的確に説明してくださっているツイートがあったので、以下にご紹介しますね。
「何かしたいこと」とか、「なりたいこと」があって、でも大体、何かしらの壁が目の前に現れる。
で、その壁って、結局、「本当にそれがしたいか?」を試されてるだけ。
本当にしたければ、壁をぶち破るだろうし。
諦めること自体が悪いのではなく、心底やりたいことでなかったことだと分かるだけ。(「しまぽん@海外隠居ぐらし」さんツイート)
↑「やりたいことをやって、うまくいかない」って、まさにこの通り、
「自分にとって、心底やりたいことではないと、わかるだけ」
だと思うんです。
人は、「やりたい/やりたくない」、「スキ/キライ」という気持ちは、意識でコントロールできないことですから、
「やりたいことをやって、うまくいかない」
「やりたいことをやって、途中でやめる」
「やりたいことをやって、興味を失う」
みたいなことって
「そのやりたいことに関して、ただ自分がそういう人間だった」
ってことなだけだと思うんですよ。
「白いご飯は、主食として毎日食べられるけど、大スキだと思っていたトルティーヤは、主食として毎日は食べられなかった。それをやってみてわかった」みたいな。
それって、あなたがダメだからそうなるとかの話ではないですよね。
あ、で、ここからが今回の記事でお伝えしたいことなんですけど、先ほど私、「才能」って言葉を使いましたけど、
この「才能」って言葉って、なんかハードル高い言葉じゃないですか。
「特別な人にしかない」みたいな感じがするし、特別じゃない人には、「ハイ終わり」みたいな感じがするし。
でも私、最近、
「才能って、特別な人にしかないってことではなくて、こういうことを意識すれば、もっとみんなが才能を発揮できるんじゃないかな」
って思ったことがあったので、今回そんな話をしてみたいと思うんですけど、
私、みなさんから、
「たくさんのカウンセラー・セラピストさんのブログを読みましたが、杉田さんのは他のと全然違うので、会いたいと思いました」
みたいなことを言っていただけることが多いので、
私の場合、今まで生きてきて一番人から、「才能がある」って言っていただけたことって、「ブログを書く才能」じゃないかと思うんです。
でも私、ブログを書く前までは、
人に見せる文章なんて書いたことなんてなかったし、
「文章が上手い」なんて言われたこともなかったし、
今も昔も「読書家」ではないですし、
「ブログを書く才能がある」と思えるような体験はないんですよね。
じゃあ、今、自分が、どうやってブログを書いているのかというと、
「遠慮なく全部コダワルこと」
で書いているんだと思っています。
あ、これ、どういう意味か、もうちょっとご説明させていただくと、
私、このブログで、
・「ひらがな」と「カタカタ」の使い分け
・「みなさん」と「あなた」の違い
・語尾の「よ」と「よね」の使い分け
・読者の半歩先を描く
・一番言いたい言葉を、あえて言わない
とか、私の中ではたくさんコダワッて書いているんですけど、そんなコダワリの中の「1つだけ」を見ると、
「そんなこと、コダワっても、コダワらなくても、別に変わらないでしょ!」
ってなると思うんですね。
でも、そういうコダワリが50個、100個とか「数が集まって」くると、全体としては、目に見えて、他とは違ったものになるんだと思うんです。
なので、私にとって、このブログは、「才能」で書いているのではなく、
「遠慮なく全部コダワルこと」で書いている
んだと思っています。
自分の「こうしたほうがイイを全部詰め込んでいる感じ」というか。
となると、「才能」 = 「遠慮なく全部コダワルこと」ってイメージで捉えると、「才能」って、特別なことではなく、実は、もっと多くの人が発揮できるものじゃないかって気がするんですよね。
エッ、「でも私にはそんなにコダワリがない」ですって?
おっとっと、みなさん、わりとそう思われるんですよね。
でも私、「人は、自分が思っているよりもコダワリがある」と思っていて、たとえばですが、
「あなたは今、どんな箸が欲しいですか?」
って聞かれたら、どうでしょう?
長さとか、太さとか、素材とか、触り具合とかあなたにも好みがあると思うし、もっと言えば、
「自分の家のテーブルに置いた時、箸とテーブルの色が合う感じがイイ」とか、
「箸を合わせると、「絵」になっているものがイイ」
とかもあるかもしれないし、
「箸を転がすと、動物が走っているように見える箸」とか、
私だったら、緑と青の蛍光色の「ライトセーバー箸」とか欲しいなぁ。(笑)
暗闇で光って、箸を動かすとブンブン音がする、みたいな。(笑)
そんな感じで、「こういうのイイんじゃないか」って、いろいろコダワれると思うんですよ。
でも、人って、そうやって細かいところまでコダワろうとすると、
「ヘンに思われる」
「バカだと思われる」
「どうせ理解されない」
「こんなの誰も興味ないよ」
とか思って、ブナンな(コダワリの数が少ない)ところで止めちゃって、自分のコダワリを全部出すのやめちゃうんですよね。
それって、もったいないと思うんだよなぁ。
なので、私、よく人に言うのは、
「やりたいことは、「こんなことしたらマズくない?」って、自分で笑いが出でしまうほど全部コダワルとイイですよ」
って、言っているんです。
そういうのが、知らず知らずのうちに、「才能を発揮する」ってことになるんじゃないかなって。
あ、もちろん、この話、
「そうしたら必ず人から才能が認められる」
とかって話ではないですよ。
でも、「才能」 = 「遠慮なく全部コダワルこと」
ってイメージで捉えると、
あなたも、もう少し楽に才能が発揮できる感じがしませんか?
それでは今回はココまでにします。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
また次回お会いしましょう!