人に「与える」ということが、
自然にできるあなたも
あまりできないあなたも
こんにちは。
「角煮を確認」と言いながらつまみ食いし杉田です。
1週間お疲れさまでした!
えーと、セラピーをしていて、「親子関係の話」を聴かせていただくと、
親に対して、
「ぜんぜん褒めてくれなかった」
「自分の話を聞いて or わかって or 共感してくれなかった」
「妹には甘かったのに、私には厳しかった」
「いつもああしろ、こうしろと言われた」
「自分に関心を持ってもらえなかった」
「あまり一緒にいてくれなかった」
「頼りなかった」
みたいに、
「親が自分の期待に応えてくれなかった」
という思いを持っている方っていらっしゃるんですね。
で、そういう方ってですね、
「クレクレな人」
になってしまうことがあるんですよ。
「は?クレクレな人ってなに?」ですって。
そ、そうですよね。
ではその意味をご説明させていただきますと、「親が自分の期待に応えてくれなかった」と思っている人って、
「親が応えてくれなかった期待を、他人に「高いレベルで」求める」
んですね。
たとえば、「親がぜんぜん褒めてくれなかった」と思っている人って、他人に、「認めて欲しい」って期待するようになるわけですよ。
(特に「身近な人」や「会社の上司(親的な存在)」に対して)
でも他人に「高いレベルで」期待するということは、その期待に応えられる人は少なくなりますから、しょっちゅう他人に怒ったり、悲しんだり、落ち込むことになるんですよね。
そういうのが、親が期待に応えてくれなかったことを、他人に対して、「クレクレ!」ってしてしまうって意味で、
「クレクレな人」なんです。
あ、で、そういう「クレクレな人」ってすね、どういうことが起こるのかっていうと、
「仕事」という場面で矛盾を感じやすくなるんですよ。
というのは、「仕事」って、様々な仕事がありますけど、根底にあるのは、
「人に与える」ってことですよね。
でも、「クレクレな人」って、「仕事」という「与える」はずの場面でも、
「無意識に」人に対して、
「私のことを認めなさい」
「私のことを一番に考えなさい」
「私に関心を持ちなさい」
「私の面倒をみなさい」
「私が言わなくても察しなさい」
みたいに、
「与える」とは真逆の「クレクレ(奪う)」をしちゃうんですよ。
で、そういう「クレクレ感」って、どんなに隠してもにじみ出てしまうというか、
ほら、例えば、自営業をやっている人のSNSとかブログとか見てても、
「この人は、自分が「すごい」って言ってもらうために、この仕事やってるんじゃないの?」
「この人、自分がカワイイって言ってもらいたいんでしょ?」
「仕事も家庭も全部完璧の「イケてる起業女子」って思われたいんじゃない?」
みたいに思う時ってありませんか?
承認欲求がにじみ出ているというか。
他にも、洋服を売りつけようとする店員さんの接客のように、
「この人、調子の良いことばかり言って、自分だけ儲かればいいと思ってるんじゃないの?」
とかも感じることってありますよね。
そういう「クレクレ感」があるものって、他人は、なんだかわかるんですよ。
そうすると問題になってくるのは、
「人は、与えることを喜びとしている人からサービスを受けたい」
(↑そもそも「人気者」ってそういう人ですよね)
って思いますから、
「クレクレな人」って、人が離れていって、仕事がうまくいかなくなるんですよね。
たとえ一時的にはうまくいっても、長続きしなかったり、
一見うまくいってたとしても、本人が燃え尽きてたり、家庭に問題を抱えたりするんです。
なので、私、セラピーで、時々、
「会社員がイヤなので、何でもいいから起業をしたい。でも、何で起業をしたらいいかわからない」
みたいな話をお聞きすることがあるんですけど、
そういうのって「自分都合」で、喜びを持って人に「与える」というスタンスになっていませんから、
「んー、そういう動機で起業するのが悪いわけじゃないけど、んー」って思うことがあるんですよね。
あ、でもこの「クレクレな人」って、何も自営業の人だけの話ではなくて、会社員の人でも、
「自分が与えてもらうことばかり主張して、働かない人」
っているじゃないですか。いつも文句ばっかり言って。
そういう人も、「クレクレな人」で、雇う側からしたら、「採用したい・抜擢したい」とは思えないですよね。
そうすると、仕事で活躍しづらいわけですよ。
ということで、自営業、会社員問わず、「クレクレな人」は、「仕事」という「与える」というはずの場面で、「無意識に」真逆の「クレクレ」をしてしまうので、うまくいかなくなったりするんですよね。
あ、で、そうそう「クレクレな人」って、わかりやすい「クレクレな人」ばかりじゃなくて、
一見、人に「与えている人」のように見える、
「隠れクレクレな人」
もいるんですよ。
というのは、たとえば、「親がぜんぜん褒めてくれなかった」と思っていた人って、
他人に、「自分を認めて欲しい!」って期待しますから、「認めてもらうために無理してガンバル」ので、むしろ積極的に「与えている人」に見えるんですよ。
でもそれって、「自分を認めて欲しい!」という交換条件付きの「与える」で、その人が、純粋に喜びを感じての「与える」とはちょっと違うんですよね。
自分の欲望を満たすための「与える」というか。
なので、そういう人って、一見、たくさん「与えて」いますから、仕事がうまくいっているように見えたりもするんですけど、
実は無理して「与える」をしているから、燃え尽きていたり、
与えても見返りがないと、相手への不満が爆発して、その場から去ることを繰り返していたり、
なんてことが起こったりするんですよ。
あ、それから、そういうのとは別なタイプの「クレクレな人」として、
「依存的な人」
というのも、わかりやすい「クレクレな人」だと思うんです。
「依存的な人」って、自分がやろうとせず、人にやってもらうことを期待するのがデフォルトですから、ぜんぜん「与える」になっていませんよね。
なので、自分が人に「与える」立場になると苦痛に感じたり、どうしていいかわからなくなったりするんですよ。
あ、で、ここまでいろいろお話してきましたが、過去記事でもお話したんですけど、
「与える」ことって、本来は「喜び」なんですよね。
(そのことについて書いた記事はコチラからどうぞ)
でも、冒頭でお話したような、「親が自分の期待に応えてくれなかった」と思っている方って、
「親から十分に与えてもらった」という気がしてないですから、
「もっともっと私に与えて!(クレクレ)」となって、自分が喜びを持って「与える側」にまわれないんですよ。
つまり、「与えるは喜びである」という経験を獲得しそびれているんですね。
なので、私がやっているセラピーでは、親子関係を扱う時は、最終的には、
「親は、人生に必要はことをじゅうぶんに与えてくれた。ありがとう」
ってところを目指してやっていくんです。
そうすると、自分が、義務的にではなく、自然な喜びをもって、「人に与える」ことができるようになるんですよね。
あ、でも私、こんなこと言ってますけど、私自身も、親に対してすごくわだかまりを持っていた人間なので、
「親は、人生に必要はことをじゅうぶんに与えてくれた。ありがとう」
なんて気持ち、昔は一生なれないと思ってたんですよ。(笑)
私の場合、親に、
「ちゃんとして欲しい」
「賢くあって欲しい」
って期待をしていたので、「仕事」という場面では、上司に対して、いつもそういう期待をしちゃってたんですね。
でも、そういう期待って、得てして高すぎますから、上司が私が望むレベルの期待に応えてくれることはなくて、
いつも上司にガッカリしたり、文句ばかり言ったり、
上司を見下したり、自分が出すぎたことをして、上司をないがしろにしたり、
なんてことをしていたと思うんですよ。
いやぁ、ヒドイ部下だったなぁ。(笑)
当時は、「ダメな上司が問題なんだ!」って思ってましたけど、今思うと、どう考えても「私自身の問題」だったと思うんですね。
「オレ、なに勝手に高い期待して、自爆してんだよ」みたいな。
でも、そんな私もセラピーを受けて自分が癒やされていくうちに、親への感謝の気持ちが出てきて、
徐々に「クレクレな人」から抜け出して、ずっと低空飛行だった仕事もうまくいくようになったんですよね。
だから、不安定な自営業をしても、ずっと安定してやってこれているんだと思います。
ということで、仕事において、いや、それだけじゃなくて、人間関係全般でも、「クレクレな人」じゃないことって大切なんですよね。
↓あ、この「クレクレな人」の記事の続きが読みたい方は、コチラへどうぞ。
エッ、「そういう自分から抜け出したい」ですって?
では、参考にこの2つの記事をどうぞ。
2つの記事を読んでも、「んー・・・」ってなる方は、一人で抜け出すのはなかなか大変なので、セラピーをどうぞ。
それでは今回はココまでにします。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
また次回お会いしましょう!