「突き抜けたものがない」と思っているあなたへ

自分を責めてしまう

「突き抜けたもの」を

持っているあなたも
持っていないあなたも

こんにちは。

ZOZOスーツを着ている私の写真を撮ろうと企んでいる話を聞いてゾゾッとし杉田です。

1週間お疲れさまでした!

 

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えーと、私ですね、昔、よく人から、「偏っている」って言われてたんですよ。

で、なんかモヤモヤしてたんです。

でも、ある時、心理学を教えてくださった先生が、

「「偏っている」って言葉って、悪い意味で言われますけど、
頭が良い人は、「頭が良い」に偏っているし、
美人は、「美しい」に偏っています。
「偏っている」ってこと自体が悪いわけではありません」

なんておっしゃっていたのを聞いて、「オォー!」って救われるような気分になったんですけど、

たしかに、「偏っている」って、そのせいで生きづらくなったり、人から浮いてしまったりとかもあるけど、

反面、偏っているがゆえに、すごく個性的で魅力的だったり、優れた能力を持っていたりとか、

「突き抜けたもの」を持っている人もいますよね。

あ、そのせいか、私がみなさんからの相談を受けているとですね、

「自分には突き抜けたものが何もない」

ってことで悩んで来られる方って結構いらっしゃるんですよ。

別の言い方をすれば、「偏っていない悩み」とでもいうんでしょうか。

ということで、今回の記事は、「自分には突き抜けたものが何もない」と思っている方のためにお話したいと思うんですけど、まずは、私がクライアントさんからいただいた以下のメールをご覧ください。

(ご本人の許可をいただいて、掲載しております)

 

杉田さん

こんにちは。
先日、CAFE Loserに参加させていただいた○○です。
ありがとうございました。

あの後、もやもやと考えていて、昨日、自分の中で、ぴたっときた出来事があったので、杉田さんにお伝えしたくメールしました。

かなり長いですが、時間があるときにでも読んでいただければ嬉しいです。

結論から言うと、私は「メジャーデビューしたい文化祭実行委員」でした。

私は、「特別な何かを見つけなくてはいけない呪い」で長年、自分を縛っていました。

私の家は、両親は理解がある人で、貧乏だったけど、いい家庭だったと思います。
父は音楽好きで、仕事はほどほど、楽器さえあればいいという人でした。
母は賢く、昔はキャリアウーマンで、読書が好きで何でも知っていました。
兄は勉強ができてピアノが得意で、ちょっと天然で学校の中でも人気者でした。

そんな中で、私だけが何も持っていなかったんです。

母は賢かったけど、パートの職場には母の良さを理解する人がおらず、「何か好きなことの中に身を置いた方がいいよ」とよく漏らしていました。

私には、
「好きなことを仕事にしたり、仕事でなくても特別な何かを見つけないと幸せになれない」
とインプットされました。
こんなに賢い母が活躍できないのに私が活躍できるはずない。
でも、何かこの人生をかけて、探さないといけない。

好きなことをやりなさいという親、
貧乏だけど必要なものを与えてくれ、私のためを思ってくれる、
そんな恵まれた環境に追い込まれていくようでした。

兄はどんどん立派になっていきました。
中高で健全な反抗期を過ごし、浪人して有名大学へ進み、いい企業に入り、結婚し、今は海外でバリバリ働いています。
その間も音楽は続け、ライブをやったり、いつも友達に囲まれていました。

一方、私は、中高と優等生で、大学に進み、社会に出て、
1社目も2社目も、仕事を夢中でやっている人ばかりの会社を選びました。
周囲に自分の何かを見つけている人ばかりが増えて、私も仕事が楽しいふり、好きなふりをしながら、何もない自分に劣等感を深めていきました。

いい家庭に育ち、いい友達に出会い、いい会社に入り、いい上司にかわいがられ、いい後輩に慕われ、、、

それでも、何ひとつ形にできない自分はなんてつまらなく、ポンコツなんだ!!
そうして、無理してでも周囲の期待に応えて褒められることで何とか自分を保ち、そのうち体が壊れるという馬車馬スタイルになってしまいました。

自分が何も持っていない、中身が空っぽな人間であることに、
何の言い訳もできない。
誰のせいにもできない。
でも、探すことをやめてしまったら、私はどうやって死ぬまで生きていけばいいんだ…

「○○さんは理解力があるね、話しやすい、面倒見がいいね。」

いろんなことを言ってもらえていたけど、私がほしいのはオンリーワンなクリエイティビティなのに。
そんな受け身な能力は仮面をかぶって我慢してれば誰でも出来るじゃん!
と評価をちゃんと受け取ることも出来ませんでした。

何か形にしなきゃ、何かモノにしなくちゃ、
と勝手に焦って追い込まれていました。
年齢も30代に突入し、何かを始めるハードルが自分の中で高くそびえ立っていました。
そんなにすごいことを形にするのはそりゃ20代じゃ無理だったね、
と思えるようなものを見つけなければいけないと。
会社を辞めた今、その焦りは頂点に達していました。

そして、昨日のことです。

そうだ、店をやろう。
何も出来ないなら、出来る人をつなげる場所を作ればいいんだ!
劣等感の強い私は、人の良いところを見つけることは得意でした。
いいアイディアだと思いました。
何もない自分にできる「特別なこと」だと。

家に来ていた彼に、そんな話をしました。

「じゃあ実現するためにはさ、、、」
場所はどんなところがいいか、どんなものを出したいのか、彼がそんな現実の話をし始めました。

その時、一気に熱が冷めていくのが分かりました。

全然、店なんかやりたくない。
もう疲れた。

彼は、全くの別業界からキャリアチェンジして、独立している人で、ガツガツしていないけど、自分のやりたいことを素直にやっている人です。

私は初めて人に、「特別なもの」を持っていない自分への焦りを話しました。
これはずっと必死に隠してきたことで、あろうことかこんな自己実現してるやつに話すなんて、みじめすぎて死ぬんじゃないかと思いました。

彼「んー、全くわからないや。
俺は上司とも会社にも合わなくて、3ヶ月とか1年とか経たずに辞めてた。
続かない、社会に適合できないというレッテルを自分に貼っていたから、
恵まれた環境で、いい人に囲まれて褒められてるなんて最高じゃん。」

私「それは、何か自分はこれだというものを持っているから思えるんだよ!」

彼「んー、この仕事を始めたときも、天職だ!っていう確信なんてなかったし、たぶん最初からすんなり始められてたら辞めてた。
自分は会社員にはなれないんだ、もう後がないぞ、っていう根性で乗り切ったんだよ」

私「・・・(こ、根性?好きなことなのに?)」

彼「わかった!今、○○は、”夢に敗れたバンドマン”ってことだね。
そう思えばいいじゃん。それで、仕方ないから楽器屋で働き始める。
そのうち、心底バンドやりたいっていうパワーが湧くかもしれないし、意外と楽器売るのいいかもってなるかもしれないし。」

私「・・・私、バンドマンっていうより・・・」

私の頭の中に、バンドマンに憧れる、優等生の姿が浮かびました。
文化祭のステージ袖から、演奏する人を眺めて、自分はいつかメジャーデビューするんだと思いながら、文化祭実行委員をやっている…

ダサっ!!!!!!!
まず文化祭で演奏しなよ!!

こんなに長年シリアスに考え込んでいたことが、急に滑稽に思えてきて、爆笑しながら大泣きするというおかしな状況になりました。

ああ、そうか。
私はバンドでメジャーデビューみたいなインパクトのことを会社と自分に求めてたのか。
「夢に破れたバンドマン」どころか、文化祭も出たことないのに、
君の才能はすばらしい、メジャーデビューさせたいとか言われたかったのか。
それで全部解決してもらえると思ってたのか。
なんというクレクレ!!

好きなことをやっているように見える人も、根性で何とかする場面だってあるんだよなあ。
一つのことで、全部解決しておわり、なんてことはたぶんないんだなあ。

たぶん、私が過去のお母さんに言ってほしかったことは、
「普通の暮らしでも、あなたがいればお母さんは嬉しい」だったんだと思います。
キャリアウーマンだった母が田舎で子育てすることになって、母の人生を邪魔したような気がしていたんだと思います。
母の人生を邪魔したからには、母が自分を犠牲にして良かったと思えるくらい、兄に負けないくらい、スペシャルな人にならなければ、と。

だから、母に、身体を壊すほど仕事する必要ないよ、健康第一だよ、
とか言われると腹が立ったんだな。存在意義を否定されたみたいで。
でもたぶん、最初から全部、私に幸せになってほしかっただけだったんだ。
お母さん、ありがとう。

お母さんも誰も、私だって、私にメジャーデビューすることなんて求めてなかった。

お店をやりたいなんて思いついた目的も、別にホームパーティすれば叶えられちゃうなあと。
そうやって、いきなりメジャーデビューしようとするんじゃなくて、やりたいときに楽器を弾けば良かったんだなあと。
それに、本当は文化祭実行委員の方が自分にとっては楽しくて、それを認めたくなかっただけかもなあと。

1年ほど前に、杉田さんの個人セッションを受けて、
そのあとも答えが出そうで出ない、
そして、CAFE Loserで参加された方とお話しして、またもやもや考えて。
いろいろな言葉を聞いて、分からず集めていたパズルがやっとハマった感じがします。
ありがとうございます。

とてもスッキリしました。
とりあえず、気負わず普通に働こうと思います。

お忙しい中、読んでいただき、ありがとうございました。

 

いやぁ、良かったですねぇ。

やっぱり、人は、「自分じゃないもの」になろうとすると、迷走するし、悩むんだなぁ。

あ、で、最近思ったのは、私が20年悩んで、セラピーを勉強して、セラピストになって、セラピストとして10年以上やってきて・・・という流れの中で、

ずいぶん私も幸せになったもんだなぁって思うんですけど、その幸せになるのと比例して、

「偏りがなくなってきたなぁ」

とも思うんですよ。(当人比)

あ、もちろん、この「偏っている」って、明確な基準があるわけではないですけど、私、昔は、もっとコダワリが強かったり、妙に過剰なところがあったのに、だんだん自分が「フツウ」になっていくのを感じるんですよね。

あ、でもこういうのって、私だけの感覚ではなくて、元気なったクライアントさんたちも、だいたい似たようなお話をされるんですよ。

で、私、そんなお話をお聞きして思ったのは、

「自分には突き抜けたものが何もない」って悩んでいる方って、

「実は、幸せになりやすいんじゃないか」

って思ったんです。

「は?意味わからない」ですって?

そ、そうですよね。

ではその意味をご説明しますと、私、アート系の仕事をしている方とか、仕事でなくても、そういう世界に長く親しんでいる方とお会いすると、

悪い意味ではなく、「偏っているなぁ」って思うことが多いんですよ。(笑)

「なにかが過剰」「なんか濃い」というか、

「心がアチラの世界に行っている」というか、

「まっすぐ歩こうとしても歩けない感じ」というか。(笑)

でも、そういう方たちって、「偏ろうとして偏っている」んじゃなくて、「そうなっちゃう」みたいなんですよね。

でも、そういう「偏り」があるからこそ、アートの世界で表現するものがあるんでしょうね。

で、逆に言えば、そういう「偏り」がない方って、まっすぐ歩きやすいというか、

心がワチャワチャしてないから日常に集中できるというか、

日常に潜む幸せをキャッチしやすいんじゃないかと思うんですよ。

あ、「幸せって、白いご飯のように薄味」なものですから、濃い味や刺激の強い食べ物ばかり食べていると(何かが過剰だったり、心が何かにもっていかれてしまうと)、

どこか気づきづらいと思うんですよね。

あ、私、心理セラピストという、人から見れば、ちょっと変わった仕事をしているように見えるかもしれませんが、生活は恐ろしく平凡というか、

たくさん出歩くこともなく、
新しいことにバンバン挑戦することもなく、
我を忘れるほどの何かにめり込むこともなく、

毎日素朴に生きていますよ。

でもそれが幸せなんです。昔は全然違ったんだけどな。(笑)

こういう変化って、「偏りがなくなったてきたからかなぁ」って思うんですよ。

あ、もちろん、今回の話って、「偏っている人が幸せになれない」って話ではないですからね。

「偏っていない人は、幸せに近いんじゃないか」ってだけの話です。

 

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ということで、最後にまとめますと、

人は、「自分じゃないもの」になろうとすると、迷走するし、悩みますから、

偏っていない人は、無理やり偏らないほうが自然だし、
偏っている人は、無理やり偏りを直さないほうが自然だし、

だからこそ、偏っていない人は、まっすぐ歩ける分、実は「幸せになることに突き抜けている」んじゃない?

っていう杉田の意見でしたとさ。

それなのに、自分に「突き抜けたものがない」と思っているあなた、

無理やり何かをでっち上げて、突き抜けようとしていませんか?

 

それでは今回はココまでにします。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
また次回お会いしましょう!

 

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